【三越閉店】古町の衰退から新潟をぼやく。

ご機嫌よう、新潟市生まれ新潟市育ちの太郎である。

本記事は30歳そこらのただのボヤキなので、
内容は薄め。暇な人向け。

1.思い出の中の古町

私が物心がついた頃、母と共にバスに搭乗し古町に出かけた事がある。
古町につく頃には座席はほぼすべて埋まり、営所通りと言われる大通りやネクスト21付近のバス停では乗車客の乗降が盛んだった。

そして大和と三越の2拠点を中心に攻め込み、その場の気分で西堀や東堀沿いを探索し、白山神社まわった後再びバスに乗って帰るのだ。

中でも三越は母のお気に入りで、家族全員で行った時には最上階のレストランでお子様ランチを頼み、ハンバーグに突き立てられた旗(爪楊枝に紙を巻き付けた加工がされている)を回収して喜んだものだ。

その後は屋上のスペースにあった100円で動くパンダの乗り物に乗ったような記憶が…あったようななかったような。

その三越が100年を超える歴史に幕を閉じた。

バブル最盛期を生きてきた年配方がよく言う。
「昔の古町は人がごった返していて、肩と肩がぶつかり合いながら歩いた。」
「駅前で飲むのはお金が持ってない人達が楽しむ場で、駅前からタクシーに乗り古町で楽しむ事がトレンド。」
「平日は朝から晩まで働き、金土日と古町に出かけて情報収集をするんだ。」

スマホもPCもない時代には古町は人々と娯楽と情報が集結する最先端の地であったのだ。
今の20代以下にはとても想像のできない世界であろう。

東京は人がめちゃくちゃ多い!スゲー!!なんて実は昔の古町でも十分体感できたのだ。

新潟はすごかったのか?

 

2.新潟県は発展と過疎化が凄まじい。

飛鳥時代、ヤマト政権だった時代に近畿地方より北の日本海側は「越国」と呼ばれていたという。当時越国とは未知溢れており、鬼や化け物が平然と住み着いていると言われていたようだ。
そして大罪人の島流しぐらいでしか、新潟がスポットライトを浴びる事はない。
そう、越後の軍神が現れるまで。

新潟の民からみて、上杉謙信公は誇りに思うはず。
敵に塩を送る(実際にやったかは諸説が異なる)という諺があるように義を貫くその姿は男性の胸を熱くしたに違いない。

上杉家と直江家とそれらを支える民の手によって越後の国は豊臣や徳川から絶望的な政治ダメージを与えられながらも守られてきた。

江戸時代、佐渡金山が発掘され、金銀を幕府に献上する事で莫大な富を手に入れた。炭鉱夫と商人と見物客に溢れ、まさにゴールドラッシュ、相当な賑わいがあったという。しかし、その急速な発展はまさにバブルといったもので枯渇する頃には遊郭で遊びきって富を失った者が増加してしまった。幕府に献上し儲けに走り走ったばっかりに、新潟には仕事を失った労働力だけ残ったのだ。

金銀につぐ新潟の資産は何か?米である。
水が抜けにくい土壌に、降雨量が多く、大きな潟や川が流れ込み、水害の多発する新潟は治水工事と新田開発に力を注ぎ、収穫量を各段にアップさせた。
農民でも貨幣を使うようになり、新潟も土地柄に合わせた戦略で大きなブランド化を図れたが、ここでも佐渡金山同様、調子に乗ってしまう。次節での収益を担保に借財をするようになったのだ。

これが明治時代に農作物の大恐慌がおこり、借財を返せなかった物が土地を手放し流動化、やがて富を持つものが大地主として生まれる事になる。少数の地主と大多数の小作人という図式が出来上がったのである。
新潟の地主は他県を踏まえても有数の大地主が多く混在し、企業や自治体に大規模な投資を行い、議員も多く生まれ、経済界に大きな力を持って
いた。この時代が新潟が全国と比較して極めて発展しており、新潟人が一度は驚くうんちくでもある、かつて日本国内で最も人口の多い県といわれていた。

しかし戦争が始まり新潟は衰退する。
太平洋側が凄まじい勢いで近代化したのだ。工業化が著しく進化させていく中で、新潟は農業県として生き残る道を選択する。これが良かったのか悪かったのか。労働力として都市部に出稼ぎに出る者が続出した。

新潟も工業化に転換させていこうと施策は行ったが、タイミングが悪く水害に見舞われ、その対策と救済に資金を割いてしまい、他県に追い抜かれてしまった。

そして高度成長期、上杉謙信に次ぐ新潟の英雄、田中角栄先生(新潟民なら先生と呼ぶはず)が登場する。
高速道路と新幹線の完備で新潟は大いに発展した…が、ここに新潟の大いな発展は止まってしまった。

 

3.現代の古町

バブルが崩壊し、土地の価格が暴落、その後回復する事なく平成15年までゆるやかに景気は下がり続けた。
大店舗法が緩和され、亀田、亀貝ほか、郊外に大型店舗ができ新潟市内に出向かなくても先端的なショッピングと娯楽を堪能できるようになった。

家庭環境も変化した。1家に1台の車、1台のテレビから時代は進み、1家に2台の車、各部屋にテレビ1台になった。
そして今は子供の分と客人を招き入れる為4台分の駐車場とテレビは大型1台にタブレットが主流になった。

この時代の変化に追いつけない建物は凄まじい速さで価値を落とした。

古町からほど近い学校町の商店街は筆頭だ。

 

現時点で古町の残念さは3点あると考えられる。
・まとまった大型の駐車場の欠如。
・新潟駅前レベルの各人の集合のしやすさ。
・“新しい街感”も“古い街感”も弱い。

この残念さの元凶は木の根のように複雑ではある。

古町でも30年程前に1坪あたり1000万以上で買った土地も現在は100万でも買い手がいない土地として溢れている。そのような状況下で数坪しか持っていないような土地建物所有者に対し、商談をまとめ、相続問題も解決し、まとまった土地を作り上げる→近隣の声も踏まえて金と事業計画を用意する→合意を得る→開発という事ができれば話は変わるだろうが、一部上場会社を創業して育て上げる事より困難だろう。

 

惜しいなと思ったのが、かつて柳都と呼ばれた新潟の堀(西堀/東堀)である。あれが今残っていたなら…と残念で仕方ない。
先日ダイエット企画で走った弁天橋も同じように思う。

勿論、観光地としての文化財の利用がこうも確立された現代ならではの発想なので当時は残す方が難しかったのだとは思う。後の祭りだ。

新潟市は観光地化より経済化を選んだ。

 

4.三越の閉店を経て

先日、全国地価公示価格が発表された時、新潟日報の新聞では「新潟市の商業用地連続上昇!(新潟県全域的には下がったけど…)」というようなノリだったが、北陸新幹線と海外インバウンドの勢いにノリまくってる石川県の新聞では「金沢が新潟引き離す 新潟の2倍」と新潟を引き合いに出し、堂々と煽って盛り上がっている。

もはや「新潟で杉と男は育たない(笑)」なんて甘えた事言ってる場合ではない。

三越の閉店は間違いなく古町に変化をもたらす大きな一歩ではあるが、この波に乗じて大規模開発が続かないとまた後手後手の歴史を繰り返してしまいそうである。

開発の内容も、人々がイオンモールでなく新潟市中心部まで足を運ぶ価値をきちんと創り出して、首都圏にはない魅力を打ち出していかないといつまでも暗い街になってしまいそうである。

 

かといって…何も良いアイディアなんて思いつかないのだが…。

困った…。

 

しかもコロナの追い打ちもあるしな…。

 

宿泊サービスの投資が観光都市と比べて少なかったと思うので、その辺は良かったかもしれない。

 

皆さんは何が出来上がったら、どんな街になったら魅力的になると思いますか?

 

…続く(のか?)